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2004年07月 アーカイブ

2004年07月06日

グールドとトロント

トロントから帰ってきて、例によってOn the Mediaを聴いていたら、グレン・グールドの話題が耳に入ってきた。(スクリプトはここ
そう言えば。グールドはカナダ人で、トロントに住んでいたのだった。
ちょっと、しまった、と思った。しかしまあ、すぎてしまったことを後悔しても仕方がない。
この番組は、なかなか面白かった。
簡単にまとめると。グールドの「コンサートは死んだ」という象徴的な言葉を敷衍していく。
グールドがコンサート会場での演奏を放棄した 理由の一つは、座席による音響の違いにより、音楽の聞こえ方に大きな不公平があること。グールドは、すべての聴衆が平等に均一の音楽を享受することを理想とした。特に、グールドの耳には、コンサートホールの残響は、ある種の夾雑物として聞こえた。
もう一つの理由は、聴衆自身にあった。グールドは、聴衆を恐れていた。聴衆の心の片隅にある、ミスを期待する悪意が、グールドには耐えられなかった。
公開演奏を放棄したグールドは、最新の電子技術を用いた、理想的な一対一の音楽を目指した。デッドな音響のスタジオでオンマイクで録音された音楽は、聞き手の耳には、自分のためだけに演奏されたインティメイトなものに聞こえる。
また、録音された多くの試演を時間をかけて聞き直すことによって、演奏する側にも新たな発見、後編集による、より高度な創造行為の可能性も生じる。
このような姿勢は、従来の演奏スタイルに固執する演奏家たちからは、蛇蝎のように嫌われた。純粋主義者による完全主義者に対する憎悪。

グールドが死んで、もう20年以上経つ。彼の死の前後、彼の最晩年の録音の一つ、バッハのゴールドベルク変奏曲を、ある時期のぼくは、毎晩のように聴いていた。
編集者として、ようやく見習い状態を脱し、自分自身の仕事が出来るようになったころだったろうか。忙しくて、毎晩、帰宅は深夜だった。家族はとっくに寝ている。仕事の緊張感で、頭の芯の部分が変に覚醒していて、目が冴えてしまい、眠るどころではない。
ゴールドベルク変奏曲のLP(そのころは、まだCDは普及していなかった)に、そっと針を落として、スコッチの水割りを手に、いすに腰をかける。一口、口に含んで、そっと目を閉じる。
たいては、表面の間は眠れない。レコード盤をひっくり返し、水割りをもう一杯作り。いつのまにか、眠りに落ちていて、針は自動的に上がり、静寂が訪れている。氷が溶けきった薄い水割りを飲み干して、ベッドに潜り込む。

このような日々が、何日続いただろうか。ゴールドベルク変奏曲以外の曲は、念頭にも浮かばなかった。そもそも、この曲は、ある貴族の安らかな眠りのために、作曲されたと言われている。
ぼくは、グールドの異様に遅いテンポのこの曲の演奏を、深夜一人で独占していたのだった。

それからしばらくして、かなり熱心なコンサートゴーアーだったぼくは、突如として、コンサートに足を運ばなくなった。
きっかけは、バーンスタインがイスラエルフィルと共に演奏した、マーラーの第九交響曲。1985年9月8日(日)、NHKホール。
レニーファンの間では、歴史的な名演として評価の高い演奏会だ。
たしかにぼくも、まさに、金縛り状態で、演奏開始から最後まで、微動だにせずに引きずり込まれた記憶が、鮮明に残っている。

しかし。

この日、ぼくは、一人で渋谷に出かけた。時間が中途半端だったし、一人でレストランに入って食事をするのも億劫だったので、途中のマックでハンバーガーを食べた。NHKホールの周辺では、イスラエルの政策に反対する左翼の宣伝カーが、アジ演説をがなり立てていた。機動隊の警備と、入場の際の厳重なボディーチェック。たまたま小さなアーミーナイフを持っていたぼくは、咎められたらどうしよう、と内心びくびくしていた。
歴史に残る感動的な演奏の余韻に浸りながら、ホールを出たぼくを待っていたのは、週末の渋谷の喧噪だった。若者たちの汗と雑多な音楽。

ぼくには、世俗と隔絶されたホール内の出来事と、日常生活の流れとの乖離が、もはや耐えられないものに思われた。それ以来、15年ほどもの間、ぼくは一切コンサートを聴きに出向くことはなかった。
いそいで付け加えておくが、けっして、ぼくの生活から音楽が消え去ったわけではなかった。アマチュアのオーケストラでの演奏も続けていたし、下手なピアノを爪弾くこともしていた。CDやテレビなどでも音楽は聴いていた。ぼくが拒絶したのは、商行為としての音楽興業だけだった。

グールドについての番組を聴きながら、ぼくは、上記の二つのことを思い起こした。ぼくの小さな体験の意味を、グールドは、夙に意識して、自らの生き方として選び取っていたのだ。

そして。

おそらくは、グールドが演奏音楽のこととして捉えた問題は、じつのところ、西欧近代市民社会と国民国家の問題と、そして、ぼくたちが今直面しているメディア技術の問題とを、先駆的かつ先鋭的に抉り出していたのだと、思うのだ。

マクルーハンとグールドが生きて活動したトロントという町の雰囲気に触れられたことを、ぼくはしみじみうれしく思った。

2004年07月16日

音楽と日常

なんだか、このごろ、妻とよく音楽を聴きに行く。この2週間ほどを見るだけでも、
7月2日(金)に、ミッシャ・マイスキーとチョン・ミョンフン
7月7日(水)に、昼どきクラシックで横浜室内合奏団
7月11日(日)には、洗足学園の夏の音楽祭
といった具合。自分で言うのも何だけれど、まあ、よく遊んでいるなあ。

それにしても、先日書いたバーンスタインが振ったマーラーの第九シンフォニーに端を発する音楽会行かない症候群はいったい何だったのだろう、などと思ってしまう。

と言いつつ、いささか言い訳めくが、マイスキーとチョンとの演奏会を除けば、ぢつは安いものなのだ。昼時クラシックは、お一人様800円だし、洗足学園の音楽祭は、いわば学園祭みたいなもので、オルガンを中心とするさまざまな組み合わせの音楽、打楽器のアンサンブル、弦楽合奏という3つのコンサートを梯子して、お一人様1000円(その気になれば、3日間+前夜祭の多彩なコンサートを聴き続けることが出来る)。

それでも、それぞれに十分以上に楽しむことが出来た。マイスキーがアンコールで弾いたラフマニノフのボカリースをパイプオルガンとトランペットでまた聴くことが出来たりもして。

演奏会の前後には、それぞれ妻と食事をした。特に、昼どきクラシックの後で行った横浜美術館に入っているビストロのランチは、もう、ビックリするほどのコストパーフォーマンスの高さ。オードブル+メインディッシュ+パン+デザートで、税込み1260円。素敵な音楽と併せて、心の中心からリフレッシュすることが出来た。

そう言えば、この日、ぼくたちは、朝から近くのスポーツクラブに行って、汗を流してから、コンサートに行ったのだった。贅沢と言えば、贅沢な。しかし、安上がりと言えば、安上がりな。

洗足学園の音楽祭に行ったのも、まあ、娘が通っている、ということもあるが、パイプオルガンを弾いた荻野さんの20年以上も前のカトリック藤沢教会時代を知っていて、何だか懐かしい思いがした、ということもあった。

で、想いは20年以上前の、藤沢の音楽状況に引き戻される。
そう言えば、荻野さんは藤沢教会でトランペットの林さんと組んで、コンサートをやったこともあったっけ。今回、荻野さんと一緒にやったトランペットの人は、その林さんのお弟子さんだって、プログラムに書いてあった。
そして、藤沢には、藤沢市民会館というホールがあり、福永陽一郎がいた。
ずっと以前、藤沢市民交響楽団の定期演奏会のプログラムに、雑文を書いたことがある。
若いピアニストがコンチェルトでデビューしたとき。
全部を覚えているわけではないが、その一節はよく覚えている。
「今日、一人の若者がステージに駆け上る」
そのステージは、オイストラッフ、シュワルツコップ、リヒテル、小澤征爾とSFOなどが演奏したステージであり、藤響が毎回定期演奏会を行うステージであり、藤沢市民オペラがその歴史を重ねてきたステージでもあるわけだ。
少なくとも、藤沢市民会館のステージは、ぼくが音楽と関わり合って刻んできた人生の中で、演奏する側としても演奏を聴く側としても、常に音楽生活(ドイツ語にはMusizielenという便利な動詞があるが)の場(まさにTopos)を提供し続けてくれてきた。藤沢市民会館は、生活空間の中で音楽を提供する側とそれを享受する側とを取り持つという日本では希有の出来事だったのだ。

あのNHKホールでのバーンスタイン+イスラエルフィルによるマーラーの第九交響曲の演奏は、そのような生活の場と繋がった音楽とは対極のものではなかったか。

もう一度、昼どきクラシックの話に戻る。
演奏会が終わった後、ホールのチケット売り場には、次回のチケットを購入して帰る人の長い列が出来ていた。その行列自体に、ぼくは、何だかゆったりした昼下がりの時間の流れに身を委ねる心のゆとりのようなものを感じたのだった。

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