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2005年07月 アーカイブ

2005年07月10日

コバケンの幻想

随分と長い間ポストしなかったなあ。
理由の一つは、このブログのホストに使っているMovableTypeの脆弱性のために、恐ろしい数のスパムコメントにやられて、ちょっと嫌気がさしたことと、身辺雑事に追われて、外界に対するコミュニケーションパワーが極端に落ちていること。しかし、こんなブログでも見に来てくださる方もいるようだし、久々に気を取り直して。
7月2日(土)、日本フィルハーモニーの横浜定期で、小林研一郎指揮のベルリオーズ『幻想交響曲』を聴いた。名演と言ってもいいだろう。指揮者、オーケストラとも、この曲を自家薬籠中のものとしていて、細部にわたるまで、相互の理解が行き届いている。その上で、炎のコバケンそのものの熱のこもった演奏が繰り広げられた。
しかし、ぼくが、書きたいのは、そのことではなく、いや、演奏のすばらしさに加えて、と言おうか、演奏を聴きながら想起された一連の思い出。
30年ほども前、小林研一郎がハンガリーの指揮者コンクールで劇的な優勝をする前、ぼくは、彼の指揮で幻想のティンパニーを叩いたことがある。
全国大学オーケストラ連名(以下、オケ連)という組織があって、ぼくは、そのころ、事務局長を務めていた。
幻想のティンパニーを叩きたい一心で、仲間と言いつのって、オケ連の特別演奏会をでっち上げ、コバケンに指揮を頼んだのだった。初めは、企画のいい加減さと意図の不純さを察したのか、固辞を決め込んでいたコバケンが、曲目を聞いたとたん君子豹変、「どうしてそれを先に言わないの」の一言で、快諾してくれた。
もう、時効だと思うから告白するけれど、謝礼も払った記憶がない。確か、仲間の一人が父君の酒庫からかすめ取ってきたスコッチウィスキーと売れる保証などない入場券何枚かを手渡しただけだったと思う。
しかし、コバケンは、当時の愛車だったフェアレディーZを自ら繰って、都内大学を転々とする練習に何度も駆けつけ、精力のこもった指揮をしてくれた。
ぼくたちの演奏会の少し前に、京大のオケが幻想を演奏しており、その際、京大オケの冶金学科在籍者が、最後の楽章のための鐘を作った話を聞き及んでいたので、ぼくたちは、はるばる仲間の車で、その京大の鐘を借りに行ったりもした。そのころ京大でコンマスをやっていた神前和正君は、自らもヴァイオリンを抱えて、上京し、演奏に加わってくれた。
本番は、言うに及ばず、コバケンの熱演あって、寄せ集めのオケとしては、上々以上のできだったように記憶している。だけど、なによりも、オケのメンバー集めから、会場の手配、チケットの売りさばきと、何から何までを、自分たちでやったことで、ぼくたちには、強い友情が生まれた。
そんな演奏会だった。まあ、青春の一齣とでも言うのだろうか。

以前書いたことがあるが、ぼくには、10年以上もコンサートに行かなかった時期がある。その反動か、ちかごろは、妻と一緒に、ずいぶんよくコンサートやオペラ、歌舞伎などに行く。
そうした流れの中で、日フィルの横浜定期にも通うようになった。コバケンの幻想は、そんなぼくの近ごろの音楽生活を、直接に30年前と結びつけてくれた。
53歳のぼくは、コバケンの幻想を客席で聴きながら、20代前半に戻って、頭の中でティンパニーを叩いていたのだった。

ベルリンの伝統

いささか旧聞に属するが、この4月、International Unicode Conferenceの機会に、妻と一緒にパリとベルリンを訪れた。ベルリンでは、国立劇場で、「ノルマ」と「ばらの騎士」を、見た。もちろん、「ノルマ」もすばらしかったが、何と言っても「ばらの騎士」には圧倒された。
2004年の秋に同じ劇場で、「椿姫」を見たときにも感じたことだが、決して派手な演出ではない。舞台装置と言い、衣裳と言い、どちらかというと、簡素というか、抽象的というか、それが演出意図と言われれば、そうなのだろうが、結果的には、コストの安い舞台となっていた。
「ノルマ」は、80ユーロ、「ばらの騎士」は、65ユーロだった。日本からインターネットで注文し、チケットは、航空便で自宅に届いていた。安価だと思う。前回、ベルリンを訪れた時も、地元の方が、ベルリンの歌劇場は、ドイツの他の都市に比べて、入場料が非常に安い、ということを言っていた。
ベルリンは、行政の方針として、ある程度制作費を抑えてでも、市民に対して安価にオペラを見る機会を提供しようとしているのだと思う。
しかし、コストを切りつめる、ということが、安っぽさにつながっていないところ、ぼくは、そこに文化の厚みを感じる。
劇場に売っていたプログラム(一つのプロダクションごとに作ると思われる、小さいが立派な装幀の本)によると。
「ばらの騎士」の世界初演は、1911年1月にドレスデンで行われている。
同じ年の11月には、今の国立劇場の前身であるLindenoperで、ベルリン初演が行われている。
現在のプロダクションの初演は、1995年3月。
同じオペラを100年近く上演し続け、現在の演出になってからさえ、10年間も演奏を繰り返している。
指揮者も歌手もオーケストラのメンバーも、おそらくは、客席のドアの開け閉めをしている職員の一人一人に至るまで、このオペラを知悉しているに違いない。オペラの制作に関わった人々のすべてが、自分が何をするべきかを完全に理解して、確実に自分の役割を果たしている。
歌唱が安定しているとか、オーケストラのアンサンブルがいいとか、現象面での個々の批評を越えるところで、高い完成度が実現している。
その上で、何とも言えない柔軟さというか、余裕というか、自由闊達さというか、音楽が生き生きと伝わってくるのだ。ぼくたちは、音楽を堪能した。
ああ、こういうのを伝統と言うのだな、と思った。
突飛な比喩かもしれないが、ベルリンが作り上げてきた音楽の伝統というのは、鍾乳石のようなものなのではないか。一滴一滴の水滴が石灰質を析出し、それが営々として積み重ねられて、強固で美しい鍾乳石を形成していく。一晩一晩の演奏が営々として積み重ねられて、ベルリンの音楽の伝統を形成していく。

もちろん、日本は日本で、能狂言、歌舞伎、落語などの文化の伝統を持っている。ぼくたちも、歌舞伎座に行けば、そのような日本の文化の伝統を身近に感じ取ることが出来る。

では、日本における西欧音楽の伝統とは。
ぼくは、決して悲観的にはなりたくない。しかし、65ユーロで、これほどの完成度を持った「ばらの騎士」を、日常のこととして見ることの出来るベルリンの市民を、ぼくはうらやましく思う。

2005年07月27日

《龍生》という名前:円満字二郎著『人名用漢字の戦後史』を読んで

今春、父が脳溢血で倒れた。曲折はあるが、以後父が意味のある言葉を発することはない。
まあ、齢90も目前なので、生きている間は、出来るだけ時間を共有しようと、しばしば病室に通っている。が、こちらからだけでも話しかけようと思っても、今までの会話の少なさがたたってか、話しかける話題の貧困さに愕然とする。

円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)を読んで、言葉を発しない父にどうしても聞いてみたいことが生じた。他でもない、ぼくに《龍生》という名前を付けた父の思いのことだ。

ぼくもご多分に漏れず、自分の名前には、それなり以上のこだわりを持っている。《龍》が《竜》でも《辰》でもないこと、《生》が《夫》でも《男》でもないこと。《生》については、亡母から聞いたことがある。当初、父は、《龍夫》を考えていたが、姓名判断で画数を変えるように勧められて《龍生》にした云々。
しかし、《龍》の部分について、父にどのような思いがあったか、ぼくは考えたことはなかった。

円満字さんの新著は、新しく生まれた子の名前に用いることが出来る漢字の制度面での変遷を、戦後の政治社会状況、日本の言語施策と重ね合わせて語り、その斬新な視点とていねいな論述には、多くのことを教えられた。
しかし、なによりも、ぼくは、人名漢字としての《龍》の由来の部分を、まるで映画「バックトゥーザフューチャー」を見るように読んだ。

ぼくが生まれたのは、1951年7月14日。7月27日には、父によって出生届けが提出され、受理されている。
しかし、ぼくの名前に含まれる《龍》の字は、1948年1月1日に改正戸籍法が成立してからしばらくの間、新しく生まれた子の名前には使えない状況にあった。すなわち、新戸籍法は、その施行規則で、新しく生まれた子の名前に使える文字を、1945年に制定された当用漢字1850字と変体仮名を除く片仮名、平仮名に制限していたのだった。
さまざまな曲折を経て、この制限が変更されたのは、1951年5月25日。内閣告示・訓令として92字からなる「人名用漢字別表」が交付されたのだ。《龍》は、この92字に含まれていた。
ぼくは、円満字さんの筆によるこの経緯のていねいな記述を「おいおい、ぼくが生まれるまでに、《龍》の字は間に合うのかよ」などと思いながら、わくわく、どきどき、追っていったのだった。「人名用漢字別表」が無事発布されたくだりでは、思わずほっとしたりしてね。

ぼくが生まれたとき、父は35歳11か月。ぼくより2歳年長の姉がいたが、おそらくは待望の男子誕生だったろう。
1949年10月1日に中国の内戦が共産党側の勝利で終結し、1950年6月25日には、朝鮮戦争が勃発している。1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の調印を控えている。
ほんとうの戦後はすぐ目の前にまで来ている。そんな時代だった。
そんな時代に、父は、2か月前に使えるようになったばかりの92字の中から《龍》を選び取って、ぼくの名を付けた。ぼくがもう少し早く生まれていても、「人名用漢字別表」の発布がもう少し遅れていても、今のぼくの名前はない。

ぼくは、《龍生》以外の名前を持つぼくを想像することが出来ない。ぼくは《小林龍生》であり、小林信夫の息子の《小林龍生》は、ぼく以外にはいない。

父も、ある時代の中で、一人の父親として、真剣にぼくの名前を考えてくれたのだ。そして、父は、その名前に唯一無二のぼくの未来を託したに相違ない。

父とコミュニケーションが取れるようになったら、このことを聞いてみよう。でも、たとえ父が再び言葉を発することが無くても、ぼくの父の思いへの確信はゆるがないだろう。

そして。
ぼくは、自分の長男に《巌生》と名を付け、次男には《龍二》と名を付けた。巌生は今年の1月に生まれた彼の長男に《蒼生》と名を付けた。どれにも《人名用漢字》が含まれている。

円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』は、ぼくたちの、ささやかな、しかし、かけがえのない家族の歴史に思いをいたすための、またとないよすがとなったのだった。
円満字さん、ありがとう。

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