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2007年07月 アーカイブ

2007年07月18日

イタリア宿酔

6月17日から24日まで、全くプライベートに妻とイタリアに行った。ローマ、ボローニャ、フィレンツェ。その後遺症からまだ復帰できない。かつてスタンダールはフィレンツェの華麗さに圧倒されて、酔ったような状態になったというが、それもあながち誇張ではない、と思わされた。

ヴァチカンの世俗的な富と美、あらゆる街角にあるあまたの教会、コロッセオの古代から現代までがまさに積み重なって共存しているローマ。中世の大学都市を今に残すボローニャ。そして、ルネッサンスの精華、フィレンツェ。

少しずつ吐き出していかないと、頭の中が、イタリアに押しつぶされた状態のまま、永遠に先に進めないかもしれない。

渦巻く頭の中から、少しずつ形が見えてきたものも、少しはある。

ウフィッツィ美術館の《春》と《ヴィーナス誕生》。(ボッティチェッリ自身の作品も含めて、それ以前の絵画、それ以後の絵画とは、全く隔絶された二つの作品。ああ、ボッティチェッリのこの二つの作品は、ルネッサンスという歴史的な現象をそのまま形にしたものに違いないのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・アンジェリコ、そしてボッティチェッリを含む数多の《受胎告知》、ルカによる福音書が、マリアの心の変化の過程を描いたものだと思い知らされる、それぞれのマリアの姿の違い。

フラ・アンジェリコの《ノリ・メ・タンゲレ》。かつて、森有正が言及していた、イエスの足の向き。

ボローニャで見た《ファルスタッフ》とローマで見た《マノン・レスコー》。ヴェルディの最晩年の作品と、円熟に向かおうとするプッチーニの作品は、ともに、1893年に初演されたのだった。すでにして独自の音色を得ていながら、ベルカントオペラの域から抜けきれないプッチーニと、言葉、劇の進行、音楽が一体となった軽妙達意のヴェルディ。それらを日常のこととして楽しむ聴衆。

ローマで食べた客に挑むような洗練のモダンイタリアンとボローニャ《パパレ》の親しみのこもった料理。

さあて、どこから吐き出していこうか。
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2007年07月31日

ある料理人の死

ガネーシュのオーナーシェフ、石原さんが亡くなった。

お店で最後に会ったとき、異様にやせていたので、気になっていた。

先日、お店に行ったら、姿が見えず、娘の幼なじみでお店でずっとアルバイトをしているトモちゃんが、糖尿病で検査入院している、と教えてくれた。お店もしばらく休むことになりそうだ、ということだったので、一度、お見舞いの花を持って食事に行こう、と家族で話していた矢先に、訃報が届いた。

やりきれない。

今、ホームページでチェックしたら、1992年の開店。

開店直後に一度ランチを食べに行った。味にちょっと安定感がない、という印象を受けた。

しばらくして、また、行った。すごく旨いと思った。そして、病みつきになった。

何度か通ううち、顔を覚えてくれたのだろう、石原さんが、「裏メニューもありますよ」といって、メニューにない料理を出してくれた。

「もう一つ、裏技があってね。マトンビリヤーニに野菜カレーとライタ(ヨーグルトと刻み野菜のサラダ)を混ぜて食べるとサイコーですよ」

サイコーだった。1+1+1が3ではなく、時に、4にも5にもなることを身をもって知った。

それ以来、ガネーシュはぼくたち家族にとって、かけがえのない店になった。

家族中で世話になっていたカーテン神父がカナダに帰るとき、毎年ホームパーティを開いている親しい3家族で集って送別会を開いたのもガネーシュだった。

東京外国語大学アジアアフリカ文化研究所のインド語の専門家である町田和彦教授や畏友樋浦秀樹さんを招いて食事をしたのも楽しい思い出だ。町田さんが、研究所に帰って「いやあ、横浜に旨いインド料理の店があってね」と自慢したら、知らなかったのご本人だけで、他の方々は先刻ご承知だった、と後から聞いた。ガネーシュの名前は、インド料理好きの間では、全国に知れ渡っていた。

懇意にしていた徳島の天ぷら屋の主人が送ってくれた鳴門の鯛を持ち込んだら、「鳴門の鯛なんて買おうったって手に入りませんよ」と満面の笑みを浮かべて、片身をビリヤーニに、のこりの片身を絶妙にスパイシーなグリルにしてくれた。

札幌の二条市場で買ってきたタラバガニとホタテ貝。タラバガニはやはりビリヤーニとグリルに。カニ味噌を入れたカレーソースにディップして食べた脚の旨かったこと。ホタテ貝は手持ちのエビを加えて、バターマサラソースで料理してくれた。

デザートも上手かった。娘は、ガネーシュで食べたデザートを全部覚えていて、時々、石原さんにリバイバルのリクエストなどをしていた。クルフィー(インド式のアイスクリーム)、マンゴーケーキ、黒砂糖のアイスクリーム。ぼくは、黒砂糖のアイスクリームが好きだった。コーヒーやチャイに添えられた黒砂糖からして、もう、味が違うのだ。素材を求める情熱も並のものではなかった。

シラスの季節になると、喜々として小坪に買い出しに行っていた。「釜揚げしらすを少し天日で干してもらうんですよ。そうすると、ビリヤーニにしたとき、コメと上手くなじむんですよ」

石原さんは、冗談半分に「いやあ、私は天才ですから」と言っていた。冗談ではなく、そう思う。ぼくはインド料理に格別詳しいわけではないけれど、石原さんの料理は、どこかの地方のインド料理というよりも、石原さんの料理、といった印象を受ける。フレンチの基礎とインディアンの経験が相俟って、どんな食材に向き合っても、彼独自のすばらしい料理に展開する実力を持っていた。

ワインへの入れ込み方も並ではなかった。特に、白ワインにはこだわりがあって、料理と合う絶妙のワインを選んでくれた。

ぼくが、カリフォルニアや勝沼で買い込んできたワインを持って行くと、「うちにワインを持ち込むのは小林さんぐらいですよ」などと言いながら、いやな顔一つせず、自分でもちゃっかりグラスを持ってきて、テイスティングしていた。

夜少し遅くなって、客が僕たちだけになると、何やかやとわがままを聞いてくれた。一方、忙しい週末などは、ぼくたちへのサービスは後回し。常連客と新しい客との距離感が抜群だった。親しさが決して馴れに流されなかった。そんな態度が、また、新たな常連客を増やしていったのだろう。

そんな石原さんが亡くなった。

やりきれない。もう、ガネーシュの料理は食べられなくなる。それは、単に料理が食べられなくなる、というだけのことではなく、料理を通して、石原さんという人格と接することができなくなる、ということ。

閉店までに、どうしてももう一度、お店に行かなければ。そして、お弟子さんたちが作る石原さんの味をしっかり舌に覚え込ませておかなければ。

生前の石原さんは、お弟子さんの養成に力を入れていた。石原さんの味は、きっとそのお弟子さんたちに受け継がれて行くに違いない。そして、お弟子さんたちは、石原さんの味の上に、それぞれの個性を盛り込んで行くに違いない。それが、後に続く人たちの責務だろう。ガネーシュが閉店しても、そのような形で石原さんの味が生き続けることを、ぼくは切に願う。


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