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デジタルと文化の狭間で アーカイブ

2004年05月24日

成都で(言葉と国境)

国際符号化文字集合(UCS)の漢字部分の標準化作業を担当するIRG(Ideographic Rapporteur Group)の会議で、中国は四川省の省都、成都に来ている。
泊まっているのがチベットホテルという名前なのだが、この成都は、麻婆豆腐発祥の地というばかりではなく、チベット自治区の入り口にも位置しているそうで、空港にはトレッキング姿の日本人ツアー客の姿も散見される。
それにしても、中国は聞きしにまさる多言語国家で、よく耳にする北京語、福建語、南京語など、中国各地の方言だけではなく、チベット、モンゴル、タイ、朝鮮半島などと接する地域の少数民族の言葉も含めると、インドもびっくり、というほどの言語と文字がある。
文字コードの標準化、という局面でも、中国は少数民族文化保護政策との関連で、さまざまな、提案をしてくる。イ文字(Yi Script)というのはすでにUCSに入っているし、Dai Script(タイ文字の類縁)やチベット文字の新提案、IPA(国際音声学会)記号への追加など、積極的な動きをしている。
まあ、そうした中には、昔台湾にやってきたキリスト教の宣教師が、ビンナン語に二つある"O"の音を書き分けるために使ったという、右上に付ける点(COMBINING RIGHT DOT ABOVE)を巡る、台湾との小競り合い、といったものも含まれてはいるが。

で、今日、ぼくが考えたいのは、そのような文字コードの些末な議論ではなく、もっと根源的な、言葉と文化の問題なのだ。といっても、田中克彦御大や、三元社から刊行されている『ことばと社会』の向こうを張ろうといった大それたものではない。

最近AFN(American Foces Network、以前はFENと呼ばれていた米軍放送)やインターネットサイトでよく聞いているNPR(National Public Radio:http://www.npr.org)で耳にしたあるコメンタリーのことだ。
幸い、このコメンタリーも、同サイトにアーカイブされているので、実際の音声を聞くことが出来る。
http://www.npr.org/rundowns/rundown.php?prgId=2&prgDate=17-Feb-2004
のページにある、下記のストリーミング。

Commentary: The Gift of Silence in Asian Conflict


Even though both of her parents come from India -- and speak multiple languages of the region -- commentator Angeli Primlani was raised speaking only English. While she initially felt disconnected from her heritage, Primlani has come to believe her parents gave her and her siblings a gift by allowing them to form their own culture.

このセクション全体のスクリプトも有料ではあるがダウンロードすることができる。

本当は、全文を試訳してみたのだが、NPRは著作権を主張しているので、このアップロードは控えることにする。その代わりに、簡単に要約すると。

コメンテーターの女性は、インド=パキスタン国境付近のシンディ(言語名にも使われている)と呼ばれる一族の難民二世でシカゴ在住。姉妹が一人いる。
彼女たちが幼いころ、両親は、両親の母語であるシンディを教えてはくれなかった。彼女たちはもっぱら英語で育てられた。
ある時彼女は両親にその理由を尋ねる。
父親の返事は、しごく曖昧なものだった。
「シンディは滅びるに任せるしかないかなあ」
So, I asked, why didn't they teach us their language, Sindhi. `India has too many languages,' my father said. `Let's let this one die.'

実のところ、両親の思いは、娘たちに自分の世代の母語を伝えないことによって、何代にもわたって続いてきた民族紛争(≒言葉と宗教の違いに起因する争い)の連鎖を断ち切ろう、とするところにあった。

う~ん。究極の選択だなあ。自分たちの母語や文化を守るために、命を賭して戦う人たちがいる。ある国家がその版図を拡げる手段として植民地の人たちに母語とは異なる言語の使用を強要してきた歴史がある。今も、言葉と宗教の違いによる争いは絶えることがない。

このコメンテーターの両親は、自らの母語=文化を捨てることによって、平和を選び取ろうとしたのだ。ぼくは、この判断の可否を論ずることは出来ない。ただ、この両親の限りない哀しみと娘たちへの愛情を思うばかりである。

翻って。
昨今、幼児期から自分の子供に英語を学ばせる親が増えているという。インドや中国などでも、類似の状況はあるようだ。
この親たちは、上記のシンディ親子について、どう思うだろう。

ちなみに、このコメンテーターの英語の発音は、非常に明晰で知的である(とぼくには聞こえる)。

2004年06月04日

対立時代の言語、政治、文化

npr(National Public Radio)の番組On the Mediaから。
言語学者 Geoffrey Nunberg の新著
Going Nucular: Language, Politics and Culture in Confrontational Times
を巡って。

この本は、同じ週のTalk of the Nationでも取り上げられていたので、きっとずいぶん話題になっているのだと思う。
タイトルになっている"Nucular"という言葉について簡単にまとめておくと。現在のブッシュ大統領は、核のことを"Nucular"と発音する。ところが、父親のブッシュは、"Nuclear"と正しく発音する。ブッシュジュニアは、幼少のころから、この正しい発音を聞いて育ったに違いない。しかし、どこかの時点で、ブッシュジュニアは明確な意識を持って、発音を変えたのではないか、と著者は考える。そして、著者は、ブッシュジュニアがこの発音を選び取ったことに、現在の、強いアメリカ、世界の警察、悪の枢軸、といった言葉と通底する意図を読み取る。(最後の部分は、少しぼくの思いこみが入っている)

で、ちょっと思い当たることがあって。別に個々人が云々ということではないのだけれど。
経済産業省の役人が「なんちゅーか、本中華」というCMでよく耳にする、「チューカ」という言い方を多用することに、あるとき気がついた。もちろん、全員ということではないのだが、霞ヶ関の経済産業省の省舎の中では、けっこう耳につく。
この言葉は、方言研究者に聞けば、即座にどこそこの方言ですよ、という答えが返ってくると思うのだけれど、何か、この言い回しの中に、集団のアイデンティティというかそれとは裏腹の関係にある自分たちを差別化する意識というか、そういったものがあるのではないか。
だれか、「日本の官僚機構とチューカの関係」みたいな本を書いてくれないかなあ。

2004年06月23日

カナダとアメリカ(ナイアガラで考える)

カナダのトロントに来ている。もう、7泊している。
Unicode Technical CommitteeとISO/IEC JTC1/SC2/WG2、SC2総会が続けてあって、今回は、ちょっと長めの出張。
しかし、何と言っても、トロントには、カトリック戸塚教会で10年以上も親しく司牧を受けたカーテン神父がいる。だから、トロントで会議があると分かって、妻の幸子も同道して、カーテン神父と会うことをとても楽しみにしていたのだった。
週末、カーテン神父の案内で、ナイアガラの滝に行った。ぼくは、地理的理解力が決定的に欠如していて(要は天性の方向音痴)、ナイアガラの滝がどこにあるかもおぼつかなかったのだけれど、実際、目前に滝を見て、川の向こう側がアメリカだと聞かされると、妙な納得感があった。
「ああ、国境なのだ」

トロントには、アメリカのシカゴ経由で入った。シカゴでは、一旦アメリカへの入国手続きをし、荷物の入念な検査を受けた。9.11以来、空港での安全検査は異様に厳しいものがあるが、その厳しさが、隣国カナダとの間にさえ及んでいることは、いささか驚きでもあった。
カーテン神父の話によると、アメリカ市民のパスポートを持っていても、特にアラブ系の人たちは、不当に厳しい検査にさらされている、という。

トロントで特に目に付いたのは、centreというスペリング。イギリス式。しかし、全般的に発音は、イギリス風というよりも、むしろ、アメリカ風に近いように思えた。
ああ、ここはアメリカではなくてカナダなのだ。この微妙な違いが、カナダの立ち位置を象徴しているように思えた。

トロントは、公園の中に町がある、といった風情で、なにしろ、緑と湖に囲まれた町なのだが、広大な国土の中に日本の四分の一ほどの人口しか住まず、GNPも5分の一ほどなのに、何かアメリカとは全く違った豊かさを感じさせる。

う~ん、カーテン神父の母国カナダについては、いろいろ考えることがありそうだなあ。
フランス語圏の問題もあるし、多民族、多言語の問題もあるし。

2004年08月01日

アメリカ民主党大会にbloggerが参加

例によって、National Public Radioの番組、On the mediaから
先週(2004年7月25日からの週)は、アメリカのありとあらゆるメディアが民主党大会での大統領候補正式指名に向けたお祭り騒ぎで沸き立っていたわけだけれど。
この大会は、他のあまたのメディアの取材陣とともに、bloggerからの取材申し込みがはじめて認められた、ということで、画期的な大会となった。といっても、取材が認められたbloggerは、200人の申し込みの内30人程度であり、大会全体の規模が数千人の参加者に対して、取材陣が一万人以上だということも忘れてはならない。
さらに付け加えると、民主党の広報関係者は、bloggerを他のメディア人と同列に捉えているわけではない、ということ。ほとんどのbloggerは個人の資格で参加しており、そのことは、blogの本質でもあるのだが、彼らから発信される情報や意見は、編集者の選択眼やや他のジャーナリズムには必ずつきまとう報道倫理の規制をうけていない。このことに対し、the Kennedy School of GovenmentのAlex Jonesは、bloggerたちが、大会に対してよけいな雑音を付け加えるだけではないか、というおそれを表明している。

この報道からも分かるように、アメリカではすでにblogはジャーナリズム論の一環として議論されるまでのメディアに成長もしくは成熟してきている、ということ。

では、日本のblogは。ぼく自身のことも含めて、日本の良き伝統?である私小説の文脈に収まっていくのか、既存のメディアを越えた批評メディアとして育っていくのか。ま、それを決めるのは、個々の書き手と、それに反応する(もしくは反応しない)読み手たちだけれど。

2004年08月17日

『部首のはなし』(阿辻哲次著)

中国文化史の阿辻哲次さん(京都大学)が、標記の御本(中公新書)を送ってくださった。
ぱらぱらとめくって二三の項目を読んでみると、すこぶる面白い。ここのところ、紙の本とはとんとご無沙汰で、もっぱらインターネットからダウンロードしたラジオ番組の耳学問しかやっていなかったのだけれど、最初のページから少しずつ読み始めた。なるほど、随筆とはこういうものだったな、と改めて思った。阿辻さんご自身の学識と、ご家族や友人知人たちにかこまれた日々の生活と、コモンセンスと言ってもよい世上に対する健全な批判精神が相俟って、読んでいて何とも楽しいのだ。
ちょっと人に話したくなるような知識や小話にも不足はない。悲しいかな、ぼくには、妻や娘ぐらいにしか話す機会はないのだけれど、さぞや、阿辻さん、祇園や銀座でもてるだろうなあ、とうらやましくなった。

なによりも、不思議というか、うれしいことは、阿辻さんの手にかかると、一見無味乾燥な漢字が、生き生きとした命を持ったものに感じられるようになること。例えば、「肉」の項目で紹介されている、「然」という字。「《火》と《犬》と《月》(=肉)からなる会意文字で、本来は犠牲として供えられた肉を焼くことを意味する字だった」(p60)のですって。まさに、旧約聖書のアブラハムが犠牲の羊を捧げる場面を彷彿とさせる。おっと、旧約聖書の世界に漢字があれば、《犬》のかわりに《羊》を配した漢字が作られていたかも。

で、ちょっと思い出したことがある。夏目漱石の『門』の一節。

すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。

この症状は、精神医学の世界では、わりと有名なものらしいのだけれど、近代の病を先駆的に経験した漱石の一面がよく表れていて、すごく印象に残っている。

こう考えてくると、阿辻さんのコモンセンスは、文字を世界と隔絶した無味乾燥な記号として扱う態度とは対極の、文字が人々の世界観としっかり結びついていた幸せな時代を研究しておられることと無関係ではない、という気になってくる。

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2005年07月27日

《龍生》という名前:円満字二郎著『人名用漢字の戦後史』を読んで

今春、父が脳溢血で倒れた。曲折はあるが、以後父が意味のある言葉を発することはない。
まあ、齢90も目前なので、生きている間は、出来るだけ時間を共有しようと、しばしば病室に通っている。が、こちらからだけでも話しかけようと思っても、今までの会話の少なさがたたってか、話しかける話題の貧困さに愕然とする。

円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)を読んで、言葉を発しない父にどうしても聞いてみたいことが生じた。他でもない、ぼくに《龍生》という名前を付けた父の思いのことだ。

ぼくもご多分に漏れず、自分の名前には、それなり以上のこだわりを持っている。《龍》が《竜》でも《辰》でもないこと、《生》が《夫》でも《男》でもないこと。《生》については、亡母から聞いたことがある。当初、父は、《龍夫》を考えていたが、姓名判断で画数を変えるように勧められて《龍生》にした云々。
しかし、《龍》の部分について、父にどのような思いがあったか、ぼくは考えたことはなかった。

円満字さんの新著は、新しく生まれた子の名前に用いることが出来る漢字の制度面での変遷を、戦後の政治社会状況、日本の言語施策と重ね合わせて語り、その斬新な視点とていねいな論述には、多くのことを教えられた。
しかし、なによりも、ぼくは、人名漢字としての《龍》の由来の部分を、まるで映画「バックトゥーザフューチャー」を見るように読んだ。

ぼくが生まれたのは、1951年7月14日。7月27日には、父によって出生届けが提出され、受理されている。
しかし、ぼくの名前に含まれる《龍》の字は、1948年1月1日に改正戸籍法が成立してからしばらくの間、新しく生まれた子の名前には使えない状況にあった。すなわち、新戸籍法は、その施行規則で、新しく生まれた子の名前に使える文字を、1945年に制定された当用漢字1850字と変体仮名を除く片仮名、平仮名に制限していたのだった。
さまざまな曲折を経て、この制限が変更されたのは、1951年5月25日。内閣告示・訓令として92字からなる「人名用漢字別表」が交付されたのだ。《龍》は、この92字に含まれていた。
ぼくは、円満字さんの筆によるこの経緯のていねいな記述を「おいおい、ぼくが生まれるまでに、《龍》の字は間に合うのかよ」などと思いながら、わくわく、どきどき、追っていったのだった。「人名用漢字別表」が無事発布されたくだりでは、思わずほっとしたりしてね。

ぼくが生まれたとき、父は35歳11か月。ぼくより2歳年長の姉がいたが、おそらくは待望の男子誕生だったろう。
1949年10月1日に中国の内戦が共産党側の勝利で終結し、1950年6月25日には、朝鮮戦争が勃発している。1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の調印を控えている。
ほんとうの戦後はすぐ目の前にまで来ている。そんな時代だった。
そんな時代に、父は、2か月前に使えるようになったばかりの92字の中から《龍》を選び取って、ぼくの名を付けた。ぼくがもう少し早く生まれていても、「人名用漢字別表」の発布がもう少し遅れていても、今のぼくの名前はない。

ぼくは、《龍生》以外の名前を持つぼくを想像することが出来ない。ぼくは《小林龍生》であり、小林信夫の息子の《小林龍生》は、ぼく以外にはいない。

父も、ある時代の中で、一人の父親として、真剣にぼくの名前を考えてくれたのだ。そして、父は、その名前に唯一無二のぼくの未来を託したに相違ない。

父とコミュニケーションが取れるようになったら、このことを聞いてみよう。でも、たとえ父が再び言葉を発することが無くても、ぼくの父の思いへの確信はゆるがないだろう。

そして。
ぼくは、自分の長男に《巌生》と名を付け、次男には《龍二》と名を付けた。巌生は今年の1月に生まれた彼の長男に《蒼生》と名を付けた。どれにも《人名用漢字》が含まれている。

円満字二郎さんの新著『人名用漢字の戦後史』は、ぼくたちの、ささやかな、しかし、かけがえのない家族の歴史に思いをいたすための、またとないよすがとなったのだった。
円満字さん、ありがとう。

2005年08月18日

Peter Jennings:あるアンカーの死

ABCのカリスマアンカーだったPeter Jenningsが死んだ。8月7日。享年67歳。死因は肺ガン。
例によって、On The Mediaでも、このことを取り上げている。
http://www.onthemedia.org/transcripts/transcripts_081205_jennings.html
大きな流れとしては、偉大なアンカーたちの時代が終焉を迎えつつあり、インターネットを軸とする新しいメディアが台頭してきている、という趣旨になっている。しかし、この番組(Bob garfield)の立場は、心情的には古き良き時代に与している。

In the worst of national moments the anchorman's authority and celebrity convert to trust, imposing a sense of calm in the midst of chaos. War, terror, assassinations, space catastrophe--that's when an anchor takes hold, keeping the society moored to the sandy bottom.

上記のフレイズは、旧メディアと新メディアとの相克についての議論で、旧メディアの(いい意味での権威性)について、余すところ無く語っている。そして、最後のマクルーハンを踏まえた一言が、何よりも偉大なアンカーに対する惜別の言葉となっている。

Google News and Wikipedia are all well and good, but the medium is more than the message. It's the messenger, too.

2005年08月30日

Rioブランドが消える日

初期のシリコンオーディオを引っ張っていたRioのブランドが、市場から消えるという。
う~ん。何だか、感無量だなあ。
ぼくは、割と先物買いなので、PMP300というRioの初号機も購入した。それも、日本では手に入らなくて、友人に頼んで、香港で買ってきてもらった。
ところが、ACアダプターのプラグが、香港仕様のバカでかい三つ叉タイプで、それを日本のソケットに差し込むためのアダプターを探して、秋葉原中を走り回ったりしたものだ。
その後、ぼくは、いったい何台のシリコンオーディオを買っただろう。もう数え切れないほど。
そのうち、iPodが出た。iPod Shuffleも出た。日本の大手家電メーカーも含め、多くのメーカーが、大同小異の機械を出し、今や、老若男女がいたるところでシリコンオーディオで音楽を聴く時代がやってきた。
そうした中で、ウォークマンを世に送り出したソニーは、一時期シリコンオーディオの分野で決定的な遅れを取っていた。まあ、その大きな理由は、ソニーが取ったコンテンツ提供者側に寄った知的財産権保護の施策にあったことも周知の事実だが。
ぼくは、ウォークマンの初代も買ったのだけれど、時代に魁けるヒリヒリするような快感は忘れがたい。その快感の中には、時代に魁けて製品を世に送り出した開発者たちへの仄かな共感も含まれていたはずだ。
いささかのほろ苦さとともに、魁けたちへの惜別の挨拶を送りたい。
ありがとう、Rio。

2005年09月09日

.xxxに対するICANNの対応

久々に、On the Media ネタ。
Dot Triple X

トップレベルでドメインネームのエクステンションを管理しているのは、ご存じICANN(The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)
民間の非営利法人ということになっているが、

ICANN was created by the U.S. Government and despite international representatives on its board, ICANN ultimately still answers to the U.S. Department of Commerce. But the Department has never used that authority until last month. That was when a five-year-old plan to generate a new domain name suddenly ignited new outrage, mostly from the Christian right. The new domain name was to be .XXX, designed specifically for Internet porn. After a deluge of six thousand letters, the Commerce Department stepped in to halt ICANN's imminent passage of .XXX.

ポルノサイトを.xxxにまとめるのがいいかどうかは、まさに、議論の分かれるところ。だが、ぼくの関心は、以下の点にある。
ICANNが国際的中立を装っていながら、究極的には米国政府の管理下に置かれていること。(正確には、米国商務省)
その、権力介入がキリスト教保守主義陣営の反対を契機としていること。

ぼくは、この10年ほど、Unicodeに関わってきて、ある種のPax Americana症候群をさんざん目の当たりにしてきたのだけれど、インターネットの世界にもPax Americana症候群あり、といったところ。ICANNよ、おまえもか。

2007年01月16日

時代の終焉:中野幹隆の死

中野幹隆が死んだ。訃報は西田裕一からもたらされた。
中野さんは、ぼくにとって唯一無二の編集者としての師だった。初めてお目にかかったときから、三十年以上ずうっと。
最初にお目にかかったときのことを、鮮明に覚えている。
駒場の大学裏の喫茶店の二階。机の上に、『エピステーメ創刊ゼロ号』。中野さんは、三つ揃いのスーツに、やや派手な臙脂色のネクタイを身につけて現れた。そのときから、ちょっと汗っかきで柄物のハンカチーフで汗を拭き、扇子で顔に風邪を送って。
ぼくは、大学院の入試に落ち、都合二度目の留年をして、学部にとどまっていたけれど、アカデミズムの道を邁進するだけの覚悟はまだ出来ていなかった。それよりも、成定薫さんを筆頭に、まなじりを決して研究に没頭する人たちの姿に気圧されて、少し気持ちがぐらついてもいた。今の妻との結婚を考え始めていて、父から、結婚するなら自分で稼ぐようになってからにしろ、とも言われていた。就職することを考え始めていた。
そんなときに、エピステーメに出会った。指導教官だった伊東俊太郎先生が、執筆されていたこともあって、中野さんへの仲介をお願いした。
おずおずとエピステーメの編集をお手伝いしたい旨を申し出た学生を、中野さんはほとんど何の躊躇もなく受け入れてくださった。
「社長と会ってください。」
お目にかかった出版社の社長さんも、
「大歓迎ですよ。でも、後で後悔されても困るので、一応、大手出版社の入社試験も受けて、落ちてきてください。」
と。
結局、ぼくは、小学館に入社し、学習雑誌の編集部で編集者としての第一歩を踏み出すことになった。入社直後、中野さんが、
「お祝いしましょう」とおっしゃって、神保町のビアホール、ランチョンに誘ってくださった。ぼくは、ランチョンの場所を知らなかった。
「え、ランチョンをご存じないのですか? 編集者としては、モグリですよ。」
ランチョンで、中野さんは、
「木曜日の午後、ランチョンにきたときは、この席は空けておかなければなりません。吉田健一先生が座られますから」
こうして、ぼくは、中野さんから、《神田村》で編集者として暮らす作法を学び始めたのだった。
爾来、勤務先が小学館からジャストシステムに変わってからも、ジャストシステムを退社して、個人会社を足場に活動するようになってからも、中野さんとの交流は続いた。
季刊哲学の一冊を、まるごと聖書の電子化の問題に充てていただいたのは、ぼくにとってかけがえのない勲章となった。
DTPでの本作りをお手伝いしたときの《スコラエキスプレス構想》が、ぼくの個人会社名《スコレックス》の源流となった。
昨年の賀状で、お体の具合がよろしくない、といったことを知り、心の隅に引っかかるものが残った。
昨日、安斎利洋、中村理恵子、歌田昭弘らと仲間内で食事をし、帰路についたところで留守宅からの連絡が入った。思えば、西田裕一を含め、中野さんを媒介として知遇を得たり、中野さんに触発されながら、議論を重ねてきた仲間は、少なくない。
中野幹隆の死とともに、書物の一つの時代が終わった。中野幹隆の時代の終焉に、愛惜の思いを込めて合掌。

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2007年01月24日

中野幹隆時代の終焉(承前)

《mixiに書いた日記の一部。このブログの前のアーティクルで少し触れたハイパーバイブルについて》

1991年10月に発行された『季刊哲学12号』は、《電子聖書:ハイパーバイブル=テクストの新スペキエス》と銘打たれている。

ビル・アトキンソンのハイパーカードがようやく普及の兆しを見せ始め、ハイパーテキストという言葉が一部の尖った連中の間で話題になり始めたころだった。HTMLもモザイクも、まだ、インターネットの海に解き放たれてはいなかった。

ぼくは、マックを持っていなかった(買えなかった)ので、ハイパーテキストによってもたらされる世界は、いくつかの書籍や雑誌の記事などから夢想する以外に方法はなかった。

一方、(一応)カトリックの信仰を持ち、学生時代に新約聖書学の泰斗、荒井献の謦咳に接したこともあるぼくは、特に共観福音書とよばれるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関係に関心があった。

ある時、共同訳(カトリック陣営とプロテスタント陣営が共同で訳した画期的な聖書)を眺めていて、突如思いついた。

「共観福音書はハイパーテキストではないか」

大げさではなく、神の啓示だと思った。

共観福音書には互いに似たような記述が多くある。

それらはつとに知られており、平行する個所を横並びに編集して一覧できるようにする努力は、手書き写本の頃から行われていた。

そして、聖書学研究の多くの部分が、平行個所の引用関係を精緻に分析することにより、三福音書の成立過程を解き明かすことに捧げられてきた。

この成果をそのまま電子化すれば、きれいなハイパーテキストになる。

いくつかの偶然が重なった。

安斎利洋さんとの思い出の共著『ターボグラフィックス』を出版してくれたJICC出版局(今の宝島)の佐藤さんが、当時、たぶん一般に手に入る唯一のMS-DOSのテキストコンソールで動くハイパーテキストツールを提供してくれた。

新共同訳の翻訳チームの一員だった福岡のイエール神父が、いくつかのボランタリーな聖書電子化プロジェクトを糾合して、信頼性の高い電子テキストをまとめていた。

そして、中野さんがいた。

たぶん、ぼくは、熱にうなされていたのだと思う。マンデルネット86の企画を、安斎さんと思いついたときもそうだったけれど、技術的に可能だと分かってしまえば、社会的な障壁などかまっていられなかった。

中野さんは、なんの躊躇もなしに、

「やりましょう」

と言った。

それどころか、このプロジェクトは、単なる福音書のハイパーテキスト化としてだけではなく、解体されるべきテキストとしての聖書(=書物)についての広汎な議論の場へと拡げられた。

皮肉なことに、ぼくが作ったハイパーバイブルは、『季刊哲学』そのものに含まれることはなかった。日本聖書協会が主張する翻訳著作権が障壁になった。

しかし、荒井献の東京大学における最終講義と若桑みどりのシスティナ礼拝堂の壁画をめぐる図像学の論文とを、ハイパーテキストとして解体し、ハイパーリンクによって異なる視点(例えば、フェミニズムの聖書学)から再構築する、といった実験を行うことが出来た。

翻訳掲載されたトマス・アクイナスとボナヴェントゥラのテキストには、『季刊哲学』からは欠落したハイパーバイブルへの外部リンクを埋め込んでおいた。

ぼくは、電子テキストの問題を考えるとき、いつも、この中野さんとの共同作業と、その後も続いた、書物の未来をめぐる議論を思い起こす。今に至るまで、巷間なされる議論で、中野さんとの議論を越えるものに出会えることは、きわめてまれなことだ。残念なことに、中野さんの書物の未来に対する絶望的な予言は、少しずつだけれど確実に現実のものとなっている。

中野幹隆の死とともに、ある時代が終焉を迎えたのだという思いは、日ましに強まっていく。

中野幹隆が生涯をかけて解体を試みた書物=テクストを、どのような形で未来の再生につなげていくか。ぼくたちは、中野さんから重い課題を受け継いでいる。


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2007年04月07日

中野幹隆の死:その後

哲学書房社主の中野さんのことをmixiに書いたら、メンタルスタッフさん、安斎利洋さんから、下記のようなありがたいコメントをもらった。

>こんな小林さんの話が、Mixiの中に埋もれてアクセスできなくなってしまうのも惜しいですよね。

>こういう時間をこえたテキストが、mixiといういわば共時的な場に刻まれるということが、まさに書物の終焉の景色なんでしょう。

このコメントを契機に、おなじアーティクルをこのブログにもアップしておいた。

そうしたら、『新潮』の編集長がコメントをくださって、同誌に中野さんの追悼文を書かないか、とのお誘い。

中野さんの生前の恩義にささやかながら報いたい、という思いもあって、喜んでお引き受けした。掲載号が今日(2007年4月7日)店頭に並ぶ。

題して、

中野幹隆の死

---またはグーテンベルク銀河系の黄昏---

このような形で、新しいメディアから従前のメディアへの細い糸を一本かけることができて、ちょっと感傷的になっている。生前の中野さんは、文芸誌もずいぶん丁寧に目を通しておられたし。


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