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書架の記憶 アーカイブ

2004年08月17日

『部首のはなし』(阿辻哲次著)

中国文化史の阿辻哲次さん(京都大学)が、標記の御本(中公新書)を送ってくださった。
ぱらぱらとめくって二三の項目を読んでみると、すこぶる面白い。ここのところ、紙の本とはとんとご無沙汰で、もっぱらインターネットからダウンロードしたラジオ番組の耳学問しかやっていなかったのだけれど、最初のページから少しずつ読み始めた。なるほど、随筆とはこういうものだったな、と改めて思った。阿辻さんご自身の学識と、ご家族や友人知人たちにかこまれた日々の生活と、コモンセンスと言ってもよい世上に対する健全な批判精神が相俟って、読んでいて何とも楽しいのだ。
ちょっと人に話したくなるような知識や小話にも不足はない。悲しいかな、ぼくには、妻や娘ぐらいにしか話す機会はないのだけれど、さぞや、阿辻さん、祇園や銀座でもてるだろうなあ、とうらやましくなった。

なによりも、不思議というか、うれしいことは、阿辻さんの手にかかると、一見無味乾燥な漢字が、生き生きとした命を持ったものに感じられるようになること。例えば、「肉」の項目で紹介されている、「然」という字。「《火》と《犬》と《月》(=肉)からなる会意文字で、本来は犠牲として供えられた肉を焼くことを意味する字だった」(p60)のですって。まさに、旧約聖書のアブラハムが犠牲の羊を捧げる場面を彷彿とさせる。おっと、旧約聖書の世界に漢字があれば、《犬》のかわりに《羊》を配した漢字が作られていたかも。

で、ちょっと思い出したことがある。夏目漱石の『門』の一節。

すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。

この症状は、精神医学の世界では、わりと有名なものらしいのだけれど、近代の病を先駆的に経験した漱石の一面がよく表れていて、すごく印象に残っている。

こう考えてくると、阿辻さんのコモンセンスは、文字を世界と隔絶した無味乾燥な記号として扱う態度とは対極の、文字が人々の世界観としっかり結びついていた幸せな時代を研究しておられることと無関係ではない、という気になってくる。

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2007年02月11日

由良君美と四方田犬彦

四方田犬彦が新潮2007年3月号に、「先生とわたし」と題する由良君美伝を寄せている。

文芸誌なんて絶えて久しく買ったことはないのに、8日の金曜日にたまたま立ち寄った近所の書店で四方田の名前が目に入り、購った。身辺雑事もあって、一気呵成というわけにはいかなかったが、四百枚を読み終わった。

四方田犬彦が由良君美とのもっとも稔りある時間として描いている1970年代前半の東大駒場における由良ゼミを中心とする時空の片隅に、ぼくも加わっていた。

ぼくは、通常なら理学部か工学部に進むコースを逸脱し、本郷の専門課程に進学することなく、駒場で科学史・科学哲学という、当時としてはまだ勃興期の学問分野を学び始めていた。

そのころの《教養学部》は、ちょっといいところがあって、主専攻(major)の他に副専攻(minor)が選べた。ぼくは、副専攻に芸術を選んだ。

贅沢な教授陣だった。皆川達夫がルネッサンスの音楽を、柴田南雄が一学期をかけてマーラーの全交響曲を、海老沢敏が1778年のモーツァルトの母親とのパリ旅行と母親の客死を、内垣啓一がバイロイトにおけるワーグナーの演出史を、高辻知義がアドルノの音楽社会学序説の講読を、角倉一朗だけは休講ばかりでろくな講義はなし、といった塩梅だった。

その中に、由良君美の芸術理論のゼミもあった。

四方田犬彦が描いている由良ゼミは全学共通一般ゼミナールとかいって、駒場の全教官有志が、通常の一般教養科目の枠を越えて、それぞれの専門とする分野についてつっこんだゼミナールを行う、という試みで、大学紛争後の疲弊した教育環境からの復興を目指す、意欲的な試みだった。学外の講師の招聘も認められていて、ぼくは、この枠を利用して、高校時代同窓だった小倉令子の伝を頼って父君の小倉朗にゼミナール講師の依頼をしたりした。

由良君美が芸術理論と題して行ったゼミナールは、この一般ゼミナールの枠ではなく、専門課程の一こまだった。

それでも、そこには、四方田犬彦がいた。脇明子がいた。青木由紀子がいた。こちらのもう一つの方の由良ゼミも、四方田犬彦が描く風景とほとんど重なり合うものだった。

四方田の記述に少しだけ、ぼくがかかわった風景を付け加えると。

ある夕刻の由良研究室で。いつものように正規のゼミが終わって、酒の入った本番のゼミになって酒が足りなくなった。四方田が買い出し係を買って出た。

しかし、まてどくらせど、四方田は帰ってこない。ずいぶん経ってから、

「守衛にいまごろ何やっているんだ、って誰何されちゃって。はい、由良先生の研究室でシンポジウムをやっています、って答えてすり抜けてきた」

と。才気煥発とはこのようなことを言うのだろう、とぼくは変な感心の仕方をした。

もう一つ。

ぼくは今でも自宅での朝食は濃いミルクティーとトーストなのだけれど。

この紅茶の入れ方は、ずーっと前から、少し暖めたミルクを先にカップに入れ、後からうんと濃く入れた安物のブラックティーを注ぐ、というやり方。

お袋が、当時のロンドンからの帰国子女だった女学校の同級生に教わったやり方だった。

四方田の評伝を読んだ上で思い返すと、ちょっと背筋が寒くなるのだけれど、ぼくは、この方法で紅茶を由良先生とゼミの仲間に献じたことがある。

由良先生と学友たちの評判はすこぶるよかった。

じつは、ぼくは、ロンドンには行ったことがないし、先日香港に立ち寄った際も、ペニンシュラホテルのブレックファストは食べそびれたので、実際にロンドンっ子がどんなミルクティーを飲んでいるのかは詳らかにしない。

ともあれ、そのころの由良先生もロンドン滞在の経験はなく、当然のこととしてイギリス流の濃いミルクティーの存在はつとにご存じだったに違いないが、その実物となると、ぼく同様、経験がなかったのではないかと推測する。

「いいね、これこそ本場のミルクティーだ」

といった意味合いのことをおっしゃたような記憶があるが、由良先生の心の中には、ちょっとアンビバレントなさざ波が立ったのではないか。

こんなエピソードよりも、四方田の評伝を読んで、改めてびっくりしたことが三つ。どれもが内外の著作者にかかわることなのだけれど。

エドワード・サイード。ぼくは、直接的には、サイードのことを教わったのは、水越伸からなのだけれど、四方田は、当時の由良先生から、「見ててごらん。いずれこの人はスゴイことをしでかすよ」という言葉とともに、サイードのごく所期の評論『始まり』を紹介されている。

レイモンド・ウィリアムズ。これも水越伸の流れで。カルチュアル・スタディーズの旗手であるスチュアート・ホールの一派が作ったソニーのウォークマン戦略をケーススタディとしたオープンカレッジの教科書があって、その付録にモーバイル・プライバタイゼーション(動く私的空間)という概念を論じた部分が引用されている。ぼくは、ここ数年、ウォークマン(いまやiPod)だけではなく、交通期間内での携帯電話のメールや携帯ゲーム機の隆盛を考える際、このウィリアムズの概念がとても有効だと思って、折に触れて考えたり紹介したりしてきたのだけれど。

このレイモンド・ウィリアムズも、由良先生はずっと昔に紹介されているという。

江藤淳。

この人は、由良先生は、この人を蛇蝎のごとく嫌っていたという。あれ、逆かなあ、江藤淳が由良先生を嫌っていたのかしら。たぶん、両方。

後年、日本文藝家協会のユニコードバッシングでぼくはかなりつらい思いをするのだけれど、会長としてその先頭に立っていたのが江藤淳だった。ぼくは、紀田順一郎とともに、あたかも敵陣中への落下傘効果よろしく、当時出版されたユニコードバッシング本に江藤淳と名前を並べて小論を書いている。

愕然とする、というか、唖然とするというか、ぼくは、アカデミズムとは縁を切って、編集者として、IT業界の製品企画者、国際標準化専門家としての道を歩んできたわけだけれど、そんなぼくでさえ、由良先生の手のひらから一歩も出ていない、ということ。

ともあれ、四方田犬彦の由良君美評伝は、世代から世代への知のリレーへの覚悟といった意味合いも含めて、ちょっとほろ苦い思い出とともに、ぼくに深い感銘を与えた。


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