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落ち穂拾い アーカイブ

2004年06月01日

ゴリラに癒される(アスペルガー症候群)

先週のLiving on Earth(National Public Radioの一番組)から。

アスペルガー症候群というのは、以前は自閉症とされていた一群の症状で、知的レベルが正常に近い(もしくは、より優れている)人たちで、「高機能自閉症」の仲間、とのこと。
詳しくは、アスペルガーの館を参照のこと。

一人のアスペルガー症候群の女性が、今では、大学で人類学の助教授になっていて、夫も子供もいて、自分の経験を本にまとめた。その女性へのインタビュー。

彼女は子供の時から、自分と他人との境目を一般の人と同じように認識することが出来なかったようで、人との音声言語によるコミュニケーションが極度に困難だった。一方、読み書き能力は非常に優れており、9歳でD.H.ロレンスを読んだり、7学年でカントを読んだり、といった塩梅。
16歳のころ、学校生活を続けることが出来なくなり、中退。ホームレスとしてさまざまな町をさまよう。薬物やアルコールに頼り、自分自身としていられるのは、ダンスホールで踊っているときだけ。

そんな彼女が、ある時、意を決して入場券を購入して、動物園に行く。そこでの動物や植物に触れることにより、彼女は初めて、自分と外の世界との境目をごく自然なものとして認識する。

やがて彼女は、動物園を職場とするようになる。なかでも、コンゴと呼ばれるゴリラとの心の交流は、ちょっとほろりとくる。彼女は、コンゴにえさのイチゴをやる立場にあったのだが、アスペルガー症候群のせいで、イチゴを几帳面に並べなければ気が済まない。ところが、コンゴは、彼女の並べ方など気にせず、どんどん食べていく。彼女が並べたイチゴが足りなくなり、彼女がイチゴを並べようとする手と、コンゴがそのイチゴを取ろうとする手が、重なりあう。
それまで、彼女は、他の生き物が自分の体に直接触れる感覚に極度に苦痛を感じていたのが、コンゴの手の感触をごく自然に受け入れることが出来る。彼女とコンゴは長い間アイコンタクトを続ける。この瞬間、彼女は、コンゴによって生涯経験したことのない癒しを得る。

とまあ、このような話。

多分、彼女がアスペルガー症候群でなければ、コンゴとのこのような感動的な心の交流は得られなかったのだろうな。彼女の話を聞いていると、例えば「対人関係に障害がある」といった言い方は適切ではなく、「自分の外側との接し方がユニークだ」といった印象を持つ。何というか、話しぶりも含めて、とても魅力的な女性に思えてくる。

ちょっと心が癒されて、得をした気分になれた番組だった。

2004年10月07日

バンコックで:きわめて個人的なことをブログで書くことは、

タイのバンコックに来ている。日本の財団法人国際情報化協力センターがコーディネイトしているアジア圏の情報技術分野の会議。
2時間の時差がぼくには好都合で、いつも起きる日本の4時から5時が、こちらでは、2時から3時になるので、早朝の時間がたっぷり使える。ロクの散歩からも解放されるし。
そんなわけで、しばらく中断していた自分のホームページのメインテナンスが少し進んだ。
以前、落ち穂拾いとしてアップしていたきわめてプライベートな雑文の部分。
久々に読み返してみると、それぞれ、それぞれなりの感慨がある。で、ふと思い直してみると、もしかしたら、このような内容こそ、ブログで綴るべきものではなかったか。
この中の、三笠会館のことを書いた文章を読んだ、見知らぬ女性からメールを頂戴したことがある。近々結婚するのだけれど、結納のような会食を三笠会館鵠沼店でするので、サーチエンジンで調べてみたら引っかかったとのこと。
自分たちが新しい人生を踏み出す節目の食事を、このような(ぼくたちの)歴史に関わってきた店でとることが出来ることが、とてもうれしい、といった意味のことが書いてあった。
ぼくも、正直、ちょっと言葉に出来ないほどうれしかった。ああ、このような出会いがあるのだ、これがインターネットなんだ。
その後、彼女とは、二三度、メールの交換があり、彼女が僕たちの結婚式の司式をしてくださったブランチフィールド神父が主任をしているカトリック平塚教会の信徒だということもわかり、結婚式で歌う聖歌のアドバイスなどもした。
会ったこともないし、名前ももう失念してしまったが、ぼくの心の中には、何か暖かな思い出が残っている。

で、何だか中途半端になっている福永陽一郎のことや、まだ書いていない小倉朗のこと、そして、三笠会館を巡るさまざまな思い出など、改めてこのブログで書いてみようか、などと思っている。

2004年11月08日

湘南フレンチの明日へ

高尾シェフの訃報を聞いた。
聞いたと言っても、最初は間接的で、大島武さん(大島渚監督のご子息)からの情報だった。大島さんとは、育った環境が(ほぼ12年の時間差はあるが)同じだったし、お父上を介して、以前藤沢市長をしておられた葉山俊さんや指揮者の福永陽一郎さんといった共通の知人があったりで、湘南地方の風土や文化の話をいろいろした。
その中に三笠会館鵠沼店の話題も含まれていた。
ぼくたち家族とこのレストランとの関係は、以前にも書いたことがある。
そんな話をしていて、高尾シェフの訃報を聞いた。
ちょっと、しまった、と思った。
話を聞いてみると、随分以前のことで、ぼくは、高尾シェフが亡くなってからも、一度ならず三笠会館鵠沼店に行っていることになる。漠然と、移動されたか引退されたのかなあ、などと思っていたが、敢えて問いただすこともしていなかった。
11月6日(日)、久しぶりに(いつもは6月の妻幸子の誕生日周辺と10月のぼくたちの結婚記念日周辺に行くのだけれど、この春は、家族のスケジュールがうまく合わずに行くことが出来なかった)三笠会館鵠沼店に行った。ローストビーフディナーの案内が送られてきたことも僕たちの背中を押した。
長男巌生の嫁奈保美も含めて6人で、至福の時を過ごした。
その折り、ふと思いついて、以前、ぼくたち夫婦の銀婚式を祝ったときに、備忘のために書いておいた駄文を打ち出して持参し、山岸支配人に手渡した。
山岸支配人も、ぼくたちの銀婚式のことを覚えてくれていた。
「あのときは、大変でしたよ。高尾と二人でメニューの相談をし、3度ぐらい試作してみましたし。まあ、わたしは味見をする係でしたが」
一瞬、食べかけのローストビーフが喉に詰まった。たった一度の、それも、たった6人だけのためのメニューのために、試作を3度も。まあ、元が取れないことは初めっから分かっていた。しかし、湘南フレンチの始祖を標榜する高尾シェフ自らが、それだけの労力と時間をかけて、ぼくたちの銀婚式ディナーに臨んでくださったことは、ぼくたちにとって素晴らしいプレゼントであったとともに、とても誇らしいことに思えた。
いくつかの三笠会館鵠沼店でのローストビーフの思い出が、頭の中を駆けめぐった。
先の文章にも書いたが、30年ほども前、結婚する前の幸子と最初に食べた時のこと。
ぼくたちの無理な注文に応じて、お昼の時間に特別に焼いてくださった時のこと。やや小振りな塊をそれぞれの皿に切り分けてくださった後、端の部分(まあ、パンで言えばミミに当たるところ)を小さな皿に盛ってくださり
「エンドカットと言います。ちょっと塩気がきつくなりますが、これはこれでおいしいものですよ。のこりの部分は、おみやげにお包みしておきますから」
次の朝、トーストに挟んで食べたエンドカットの味は忘れることが出来ない。
そんな話を山岸シェフにしたら、
「ええ、やはり味がきつくなってしまいますから、普段はお客様にはお出し出来ません。後でお包みしておきますよ」「パンに挟むのは、大正解で、パストラミビーフ何かよりずっと美味しいですよね」
そう言えば、前回のローストビーフを切り分けてくださったのは、高尾シェフではなかった。今、思い起こすと、今回紹介していただいた芳川シェフではなかったか。
「今日は、高尾が休みを取っておりまして、代わりのものですが」
きっと、この時すでに高尾シェフは病を得ていたのだ。
芳川新シェフが、傍目に見ていても緊張しておられるのが分かった。(今回は、ずいぶんとシェフ業も板に付いていたけれど)
高尾シェフの思いでも尽きることはない。娘は、
「わたしの結婚式には、絶対に高尾さんの料理。親子が同じシェフの料理で結婚式やるなんて素敵でしょ」
などと言っていたけれど、もうかなうことはない。
小さかった子供たちが、お子さまディナーを早く食べ終えてしまい、退屈してお店の中をうろうろしていたときなど、グリルでお肉や魚介類を焼きながら、にこにことした笑顔で相手をしてくださっていた高尾シェフの姿を見ることも、もうできない。

だけどね、芳川さん。ぼくたちが結婚したとき、高尾さんはシェフではなくて二番だったのだ。
高尾さんがシェフを引き継ぎ、湘南フレンチを作り上げた。ローストビーフの伝統も引き継いだ。
そして、今の鵠沼店のシェフは芳川さんなわけだ。芳川さんには、芳川さんの湘南フレンチがあり、ローストビーフがある。
ぼくたちは、これからも三笠会館鵠沼店に通い続ける。いいお店の伝統とはそういうものであり、ぼくたちは、このようなレストランとともに家族の歴史を刻み続けてこれたことを、心から誇りに思っている。

改めて、高尾シェフに感謝
合掌

2005年02月04日

ホテルビーナス

米国ベイエリアのホテルで、映画ホテルビーナスを見た。
2月3日(木)の夕方、成田を発って、同じ日のお昼前に、定宿にしているUnion CityのExtended Stay Americaにチェックイン、スーパーに食べ物や飲み物の買い出しに行って、一風呂浴びて一眠りして。
夕方から見始めた。

いい映画だと思う。心を動かされた、と言ってもいい。

この映画を一言で言い切ってしまうと、「死と再生の物語」。近しい人の喪失は、自己の部分的な喪失でもある。喪失した自己が占める割合が大きいか小さいかは、人によってそれぞれ異なるとしても、近しい人を失うことが多かれ少なかれ自己の喪失であることに違いはない。

ホテルビーナスには、そのようにして、自己の一部を失った人たちが集まってくる。
自己のよりどころが時間の流れにあるとすると、ホテルビーナスの時間は、ほとんど止まっている。

その時間が、サイという母親を失い、会話と笑顔を失った子供に、会話と笑顔を取り戻させようとする人々の営為によって、少しずつ流れを取り戻していく。

外国のホテルでの一人きりの時間は、恐ろしいほど緩慢に流れていく。そうした時間の中で見たホテルビーナスは、家族や友人たちとのつながりによって成立している自分を思い起こすなによりの時となった。

2005年08月16日

NINAGAWA十二夜

七月大歌舞伎、NINAGAWA十二夜を見た。(7月26日、昼の部)
意外なことに、蜷川幸雄が歌舞伎の演出をしたのは初めてとのこと。
ぼくたちのすぐ後ろの席に、翻訳者の小田島雄志先生がいらしていて、ぼくは、学生時代に教室の片隅で謦咳に接したことがあるものの、先生が覚えておられることなどあろうはずもなく、一方的に少し居心地の悪い思いをしたわけだけれど。
劇そのものについては、まあ、素人がどうのこうのと言うこともないと思うが、ぼくには心底から楽しめた。
この貪欲さというか、冒険をおそれない大胆さというか、歌舞伎が過去のものではなく、現代に生きている演劇だということを痛感した。
先日、ベルリンのシュターツオパーで感じたオペラの伝統といったことが、東京の歌舞伎座で、全く同じように息づいていることに、ぼくはちょっと誇らしい思いを抱いたのだった。

2006年07月14日

モエレ沼公園とイサム・ノグチ

ちょっと旧聞に属するけれど。

6月末に、北海道に行った。主な目的は、イサム・ノグチがグランドデザインを描いたという、札幌のモエレ沼公園。

28日(水)の朝一便(7:50発)で、旭川へ。9:30到着。レンタカーを借りて、美瑛、富良野方面をぶらぶら。緑の絨毯とお花畑を堪能しました。途中、普通の住居の一室でやっているお店で、スコーンとソフトクリームで、お茶。お花畑では、揚げたてのジャガイモコロッケを頬張った(ぢつは、全道中で、このジャガイモに一番感動した)。お昼は、富良野の「魔女のスプーン」というお店で、名物(イカスミチーズ入り)スープカレー。なかなか乙な味でした。

富良野市がやっているワイナリーとチーズ工房を覗いた後、一路十勝川温泉の観月苑へ。

十勝川温泉は、植物性モール温泉という、美人肌にする日本でも珍しいもの。

温泉(特に露天風呂)もよかったし、料理も満喫。

早朝、十勝川河畔を散策。

朝食後は、一路、札幌のモエレ沼公園へ。この公園は、イサム・ノグチが最晩年に計画とデザインに係わり、やっと昨2005年7月にグランドオープンしたもの。今回の北海道旅行の最大の目的。

公園近くで札幌ラーメンを堪能して、公園内へ。

この公園は、もとは市のゴミ廃棄場。1988年に晩年のイサム・ノグチがここを訪れ、グランドデザインを策定した。日本の庭園ともヨーロッパの庭や公園とも異なる。というか、ノグチは洋の東西の庭や公園を研究し尽くした上で、自分自身の庭を描いたのだと思う。

この公園にいるだけで、子宮に包み込まれたような安らぎを感じる。自分がノグチの巨大な彫刻作品の中にいる、という感覚と、(公園内の)二つの山の頂から見た景観の違いの妙は、得難い経験だった。

札幌市のホームページに、イサム・ノグチと公園のデザインに係わった市職員のインタビューが載っている。

http://www.welcome.city.sapporo.jp/moerenuma/im.html

そこに引かれているノグチの言葉。

「自然の中で自然のまねごとをしてもだめですね」

う~ん。すごいこと言うなあ。で、作品を作るキャンバスが、ゴミ捨て場だからね。

うまく言語化できないのだけれど、またも芸術家/創造者が持つ、果てしない可能性を思い知らされたのだった。

レンタカーを駅前で返し、大通公園にあるロイズのお店でチョコレートを買ってお茶。

帰路は、北斗星2号。ブルートレインに乗るのなんて、20数年ぶり(前は、『学習幼稚園』の取材と称して家族で長崎に行った)。食堂車でのフレンチフルコースを楽しみにしていたのだけれど、オードブルのウニとスープ(兼魚料理)のタイがょっと。先にメニューを決め、予算内で食材を調達したのだろう。鮮度がちょっとね。肉料理のソースにしてもデザート(大豆入りのアイスクリームとスープ仕立てのココナッツミルク)にしても、味はきちんとしていたので、何だかもったいない感じがした。ウニとかタイとかに拘らず、予算内で調達できる食材を鉄道内の厨房を考慮した調理方法で出した方が、ずっとよかっ

たのに。

上野までは16時間あまりの旅。このうんざりするような退屈感こそが、贅沢に極みなのだろうな、などと納得。

考えてみるとほぼ48時間の旅の内、半分の時間はレンタカーか汽車で移動していたことになるけれど、なかなか乙な旅ではありました。


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2006年10月08日

いわと寄席:柳亭市馬の日

木曜社の及川さん、ご隠居さんモードの浜地さん、主婦の友の金沢さんというかつての電子書籍トリオのお誘いを受けて。
いわと寄席は、デザイナーの平野甲賀さん夫妻がプロデュースされている寄席。
及川さん、浜地さん、幸子と飯田橋で待ち合わせし、紀の善という甘いもの屋さんで豆寒で小腹を満たしてから出陣。
市馬さんの演目は三軒長屋。ぼくは、こんなに長い落語の独演を聴いたのは初めてだった。素人がご託を並べたって仕方がないので、印象深かったことを一言だけ。
凋落した武士、職人、商人といった江戸時代の階層を象徴する三人の男が登場するわけだけれど、その話っぷりの使い分けが、至極面白かった。後半は、ゲストに三絃の田中ふゆ
ふゆ師匠を迎えての、寄席の歌。及川さんなどは、落語家ごとに異なる出囃子のメドレーにかなり陶酔のご様子。
はねた後、鳥茶屋に飛び込んで、生湯葉とうどんすきで軽く一杯。
なんというか、贅沢な時間だった。以前、同じメンバーで、谷中界隈の下町ツアーに連れて行ってもらったことがあるのだけれど、及川さんと浜地さんの掛け合いを聴いているだけで、すこぶる楽しく勉強になる。というか、ぼくや幸子が、いかに限られた社会空間の中で生きてきたか、ということ。歌舞伎や相撲の話、食べ物屋さんの話も含め、江戸時代から続く庶民の文化が、及川さんや浜地さんの血肉の中にごく自然にとけ込んでいる感じ。世代論だけでは割り切れない、豊かな生活環境にある種の羨望を覚えた。
金沢さんの心配りも含め、このような知己とともに、初秋の一夜を過ごせること自体、すごく幸福で贅沢なことなのだろうな、というのが、余韻を味わいながらの幸子との結論。
  • タイトル:いわと寄席:柳亭市馬の日
  • 開始日時:2006-09-29 19:00
  • 終了日時:2006-09-29 21:00
  • 場所:シアターイワト
  • 前座 市丸

    柳亭市馬「三軒長屋」

    ──仲入り──

    柳亭市馬の好きな寄席の唄

    ゲスト 田中ふゆ



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